[voice icon=”https://yukogendo.com/wp-content/uploads/0081_xlarge.png” name=”げんどうゆうこ” type=”l”]今回は優しさについて思うところを。わたしは相手の悩みを先回り解決しちゃうのは優しさではないと思います。相手には相手なりの解決したり、目の前のことを扱う力があるからです。 [/voice]
私の名前は「優子」と言います。
優という文字は「憂う = 悲しむ」の隣に人が寄り添うと書いて「優しい」という文字。「子」という文字は 一 (初めから) 、 了 (終わりまで)という意味。「つまり、生まれてから死ぬまで、人の悲しみに寄り添ってあげられる心優しい子に育ちますように」という願いが込められた名前です。
なので「優しい」は自分にとって特別な言葉だし、誰かに「優しいね」と言われたら親の願いを叶えてあげられたようでとびきり嬉しくなる。誰かに悩みを相談された時、優しい自分で在りたいとは思うけれど、だからこそ優しいとはどういうことかをよく考えています。
そんなわけで優しくあることについて常に探求中な私ですが、1つ気をつけているのが「相手の悩みを自分が解決しようとしないこと」
相手の悩みを解決しようとしてしまう気持ちの裏には「悲しんでいる友人を見るのが辛い」とか「役立って感謝してもらいたい」とか「問題解決したい (=放置しておく、が相手の解決方法であることもあるのにね) 」などの自分のエゴが潜んでいるからです。
最近は特に大好きな友達が悩んでいたので、私にしては珍しく「何とかしてあげたい!」と言うエゴにまみれて泣いたり怒ったり。普段は「それ、あなたの問題なんで」としれっとできる方なんですが。
ただ、散々私が泣こうが悩もうが、ダメなんです。その悩みは相手のもの。そして相手のために起きてること。そこに踏み込むことは相手の領域を侵すこと。なぜなら相手は目の前の出来事を扱う力があるからです。
人は目の前に起きていることを扱う力を持っています。例え、それが「逃げる」ことや「目をそらしておく」と言うことだったとしても。(どうしても自分が好む対応や解決を相手がしていないと見ていてイライラしたり、モヤモヤしちゃったりするけどね)
人は人を助けることはできない、その人の立ち上がる力を支えるだけ。相手を助けることができるのは相手だけです。自分が助けたいなんておこがましすぎると私は思います。
相手が本当にどん底のときには、共感が相手の心を癒すことはもちろんあるのですが、辛さや悲しみを感じ切った後は、共感とは別の方法でその人の立ち上がる力を後押しする必要がある。
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私は「自分自身が良い状態でいる」ことを心がける人が優しい人だと考えています。つまり、自分を愛する力を持っている人。
「助けて」と言われた時に、すぐに電話をかけたり、飛んでいってあげられるだけのスペースがあること、話を聞く時に相手を信じること( 相手を信じる、は自分を信じることが出来ない人は出来ないです。信じるふりなら出来るけど。)、穏やかに暖かく話を聞いてあげられる自分でいること、これらは全てその人の日々の積み重ねでしか身につかない在り方じゃないかと。
ちょっとマニアックな話になりますが、人は音叉(U字の金属みたいなやつ)のように波動が波及し合うので、悲しんでいる人と一緒に悲しむより、思い切り相手を信頼して「大丈夫だから」という在り方でいる方が相手も自分を信じる気持ちを思い出しやすいんですね。
落ち込んでいる時にエネルギーをもらえる人っていると思うのですが、それは相手の明るいエネルギー、波動が同調して、自分の中に埋もれている同じエネルギーが表面に上がってくるから元気になるのです。
結局優しい人とは自分の小さな悲しみにも丁寧に寄り添って、自分を愛している人なのだと思います。何故なら自分を愛している人の傍にいくと、相手も自分を愛する気持ちを思い出しやすいから。自分に力があることを思い出しやすいからです。
最近、たまたま人の相談にのることが続いていたので、そんなことを考えてみました。あんまりまとまっていないなぁ。。私の優しさの探求はまだまだ続きそうです。